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大阪地方裁判所 昭和45年(レ)129号 判決 1976年4月30日

控訴人 山中菊太郎

右訴訟代理人弁護士 石橋一晁

被控訴人 古川重光

右訴訟代理人弁護士 奥田忠司

同 奥田忠策

同 隅田博

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、控訴人

1.原判決中、控訴人敗訴部分を取消す。

2.被控訴人の請求を棄却する。

3.訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人の負担とする。

二、被控訴人

主文と同旨。

第二、被控訴人の請求原因

一、被控訴人は控訴人に対し、昭和二二年四月ごろ別紙目録記載の家屋(以下、本件家屋という)を賃料一か月一〇〇円、毎月末持参支払の約定で賃貸した。右賃料はその後順次増額され、昭和三二年二月当時は一か月六〇〇円の約定であった。

二、ところが控訴人は、昭和三二年二月から昭和三七年六月分までの六五か月分の賃料のうち昭和三六年七月分から同年一一月分までの五か月分を除く六〇か月分の合計三万六〇〇〇円の支払を怠ったので、被控訴人は、昭和三七年七月一二日付書面で控訴人に対し、延滞賃料合計三万六六〇〇円(ただし、右金額は昭和三六年一一月分の賃料についても未払であると考え、誤って計算したものである)を右書面の到達後五日以内に被控訴人方に持参して支払うよう催告するとともに、その履行を怠ったときは本件賃貸借契約を解除する旨の条件付解除の意思表示をなし、右書面は同月一七日控訴人に送達された。

三、しかるに、控訴人は右催告期間を経過するもその支払をしなかったので、本件賃貸借契約は昭和三七年七月二二日限り解除によって終了した。

四、控訴人は右賃貸借契約の解除後も本件家屋を占有してその明渡をなさず、返還債務の不履行により被控訴人に対し一か月六〇〇円の割合による賃料相当額の損害を蒙らせているところ、延滞賃料三万六〇〇〇円に対しては、その後昭和三七年八月一〇日に昭和三六年一二月分の賃料として六〇〇円、昭和三七年一二月一七日に一万五〇〇〇円の支払があったので、その残額は二万〇四〇〇円となった。

五、よって、被控訴人は控訴人に対し本件家屋の明渡しを求めるとともに、右二万〇四〇〇円および解除後に属する昭和三七年八月一日以降明渡ずみに至るまで一か月六〇〇円の割合による賃料相当の損害金の支払を求める。なお、控訴人は請求原因に対する答弁において控訴人と被控訴人との間の賃貸借契約の成立および六〇か月分の賃料が未払であることを否認する旨述べているが、右は自白の撤回にあたり異議がある。

第三、請求原因に対する控訴人の答弁

一、請求原因一の事実はすべて否認する。控訴人と被控訴人との間には被控訴人主張のような賃貸借契約が成立した事実がないから、右賃貸借契約の成立を前提とする被控訴人の本訴請求は失当である。すなわち、控訴人は被控訴人の先代訴外亡古川市太郎から本件建物を賃借したが、昭和二一年六月二日右市太郎が死亡したので、同人の長男である訴外古川三郎が家督相続により本件家屋の所有権を取得するとともに、賃貸人としての地位を承継したもので、その後において被控訴人との間に新たにその主張のような賃貸借契約が成立した事実はない。

なお、控訴人は原審において、被控訴人主張の日時に賃貸借契約を締結したことは認める旨述べたが、賃貸借契約の内容については認めておらず、また賃貸借の成立の点についても被控訴人において右の陳述を援用する以前に撤回しているから自白の成立はなかったものというべく、かりにその成立があるとしても右は真実に反し、かつ、錯誤に基くものであるから撤回する。

二、同二の事実中、被控訴人主張の日時にその主張のような書面の送達のあったことは認めるが、その余の事実は否認する。

なお、被控訴人は六〇か月の賃料が未払であることについて自白の成立を主張するが、控訴人において右の事実を認めたことはなく、かりに自白の成立があるとしても、右は真実に反し、かつ、錯誤に基くものであるから撤回する。

三、同三の事実は否認し、同四の事実は争う。

第四、控訴人の抗弁

かりに控訴人と被控訴人間に賃貸借の契約の成立があったと認められるとすれば、つぎのとおり主張する。

(家屋明渡の請求について)

一、本件家屋の賃料は、昭和三三年三月分までは一か月五五〇円、昭和三三年四月から昭和三六年六月分までは一か月六〇〇円、昭和三六年七月分以降は一か月八〇〇円であったが、被控訴人が延滞を主張する六〇か月分の賃料については、支払期日の到来する都度控訴人本人において支払をなし、または訴外上出常三において控訴人のために立替支払をなし、延滞することはなかったから、賃料不払による解除の効力は生じなかったものである。

二、かりに右の主張が認められないとしても、被控訴人は訴外上出に本件家屋の管理一切を委ね、同人において賃料の取立を行なっていたが、同人は控訴人の窮状を理解し、各集金に来る都度その月分の賃料について、あるいは昭和三六年八月ころ、当時までに滞っていた家賃(昭和三二年二月分から昭和三六年六月分までの五三か月分の家賃金三万一一〇〇円)について、余裕のあるときに払って貰えればよいということで期限を定めず支払を猶予した。右支払猶予の期限は民法四一二条二項にいう不確定期限であるから、被控訴人は右支払猶予分について控訴人に対し支払の請求ができなかったものであり、その履行遅滞を理由とする解除権の行使は失当である。

なお、訴外上出に賃料の支払猶予についての代理権がなかったとしても、上出はいわゆる差配として本件家屋の管理を委ねられていたから、控訴人において同人が賃料の支払を猶予する権限を有すると信じたとしても無理からぬことであり、同人のなした支払猶予の意思表示の効力は被控訴人にも及ぶといわなければならない。

三、かりに右の主張が認められないとしても、本件賃貸借契約においては賃料の支払について取立払の約定があり、本件延滞分については被控訴人による取立てがなかったから、履行遅滞の効力は生じなかったものである。すなわち、被控訴人の先代亡古川市太郎は控訴人が賃借占有している状態で本件家屋を買取り、前所有者が控訴人との間に締結した賃貸借関係を承継したが、その前所有者との間に賃料は取立払とする約定があり、現に家主が集金に来ていた。そして、市太郎は前家主との取立払の約定を引継いでみずから集金に来ており、被控訴人が相続によって賃貸人となった後は、管理人の上出において賃料の取立てをして来たものである。かりに取立払について古川市太郎以前の家主との間に明示の約定がなかったとしても、同人は取立払の慣行を前提として賃貸借を承継し、さらにこれを承継した控訴人においてもその慣行を黙示に了解し、賃料は取立払とする旨の意思を表示していたものとみるべきである。

四、かりに右の主張が認められないとしても、本件催告は次の理由によって不適法であり、その効力を生じなかったものである。

1.本件賃料の支払については前述のとおり取立払の約定であったにもかかわらず、本件催告書には持参払をするよう記載されており、契約の本旨に従った催告ということができない。

2.本件催告にかかる賃料のうち五三か月分については、前述のとおり支払猶予があり、控訴人に支払請求ができなかったものであるから、右五三か月分を含む賃料の支払催告は過大催告にあたる。

3.本件催告期間の五日は、催告にかかる金額や控訴人方の経済事情からして短かきに失し、相当の期間を置いた催告ということはできない。

五、かりに右の主張が認められないとしても、本件賃料は取立払の約であり、遅滞に付するためには催告のみでは足りず被控訴人による取立のあることを必要とするところ、その取立てがなかったから、右催告期間の経過により当然に遅滞を生じ解除の効力が生じたとする被控訴人の主張は失当である。

六、かりに右の主張が認められないとしても、控訴人の賃料不払については以下述べるように賃貸人に対する背信行為と認められない特別の事情が存するから、本件解除の意思表示はその効力を生じなかったものである。

1.控訴人は昭和二八年夏頃から病弱のため賃料の支払を遅滞しがちであったが、被控訴人はこれをよく了知し認容して来たもので、しかも本件延滞分については昭和三七年一二月一七日に一万五〇〇〇円を差入れたのみならず、昭和三七年九月分以降については確実に供託しており、昭和三九年六月一八日には合計二万二六〇〇円を延滞分として供託済であるから、現在において不履行はない。

2.控訴人は六〇か月間継続して全くその支払をしなかったわけではなく金が貯り次第払っていたのであり、貧乏な控訴人にとってはそれが精一杯の支払であって不誠意であるがために滞納したものではない。

3.被控訴人は家主になって以来三〇年間一度も本件家屋を修理したことがないため、借主である控訴人が一切の修繕をして来ており、本件賃貸借について被控訴人の側にこそ修繕義務懈怠の背信行為が存する。

4.本件家屋は八軒長屋であったが、被控訴人はその中央部の二軒を立退かせて取り壊し、控訴人を含む残り六軒の借家人に対しても右家屋から立退かす意向のもとに六軒全部の家賃の受領を拒絶しているもので、賃料受領の意思のないことが明確である。

七、かりに右の主張が認められないとしても、被控訴人は右解除の意思表示を撤回したので、その解除の効果は消滅した。すなわち、被控訴人の代理人である上出は、控訴人が昭和三七年八月一〇日に本件延滞分のうち昭和三六年一二月分の八〇〇円を支払った際、残りは余裕が出来たときでよい旨を告げ、同年一二月一七日金一万五〇〇〇円を支払ったときも快くこれを受領し、右金員を昭和三二年二月分から昭和三四年三月分までに充当する旨記載して控訴人に交付する等、解除後においても賃料を引続き受領する意思を明らかにし、その後も昭和三八年に入り代替家屋の提供を申出て本件家屋から立ち退いてくれるよう申出るなどしたが、これらは解除の意思表示の撤回の表明にほかならない。

なお、上出に解除の意思表示を撤回する権限がなかったとしても、上出はいわゆる差配として本件家屋の管理を委ねられていたのであるから、控訴人において同人が解除の意思表示を撤回する権限を有すると信じたとしても無理からぬことであり、同人のなした解除の意思表示撤回の効力は、被控訴人にも及ぶといわなければならない。

八、かりにそうでないとしても、被控訴人は解除後二年有余の長きにわたり訴訟を提起することなく前述のとおり延滞賃料を受取り、その後においても家賃の弁済供託通知を受領しており、建物の使用占有について何らの異議を述べることなく経過しており、ことに訴提起時において未払賃料は全くなかったことを併わせ考えると、失効の原則により解除の効果は消滅したというべきである。

九、かりに右の主張が認められないとしても、被控訴人は上出を介し再三にわたり昭和三二年二月分から昭和三六年六月分までの賃料の支払を猶予して、昭和三六年七月分以降の値上りした家賃を集金し、しかも右支払猶予分については昭和三七年七月に至り一括して五日以内に支払を催告して来たものであり、この事実に前記六、七で主張した諸事情を併わせ考えると、被控訴人において控訴人に対し賃貸借契約解除の効果を主張して本件家屋の明渡を求めることは信義則に反し許されないといわなければならない。

一〇、かりに以上の主張がすべて認められないとしても、被控訴人の本訴請求は権利の濫用として許されない。すなわち、被控訴人は本件家屋を含む八軒長屋を取壊し、その跡に文化住宅を建築する予定であり、控訴人に対して本件家屋の明渡を求める動機は専ら右の意図によるものである。これと対比し、控訴人は多くの家族を抱え耐乏生活に甘んじている現状にあり、転居の費用などを捻出できないばかりか、現賃料以上の賃料の支払を必要とする借家を借り受けるときは、到底生活を維持できない経済事情にある。このような双方の事情を比較考量すれば、被控訴人が権利の行使によって得る利益に比し、控訴人の蒙る損害ないし不利益は甚大であり、本訴請求は到底正当な権利の行使ということはできない。

(未払賃料および損害金の請求について)

一一、控訴人は、本件賃料のうち昭和三二年二月分から昭和三四年三月分までは昭和三七年一二月一七日に一万五〇〇〇円を支払い、昭和三四年四月分から昭和三六年六月分までと昭和三七年一月分から同年八月分までは昭和三九年六月一八日に二万二六〇〇円を弁済供託し、昭和三六年七月分から同年一二月分までの家賃については現実に支払いをなし、昭和三七年九月分以降は供託して現在に至っているから、被控訴人の未払賃料および損害金の請求は失当である。

なお、本件家屋の統制賃料は月額六〇〇円以下であり、被控訴人の主張する未払賃料額のうち、統制額を上回る分については無効であるから、被控訴人の催告は過大催告となるのみならず、また超過分を右未払分に充当すれば、本件賃料は完済されているものである。

第五、抗弁に対する被控訴人の答弁

一、抗弁一の事実中賃料額の点は争い、その余の主張は否認する。賃料が六〇〇円になったのは昭和三一年四月分からであり、昭和三二年二月分以降の本件延滞賃料は月額六〇〇円である。その後昭和三六年七月分以降の賃料を当事者双方協議のうえ値上げした事実はあるが、八〇〇円では統制賃料より少し高くなるので、本件催告に際しては統制賃料以下の旧賃料六〇〇円によって請求したものである。(なお賃料未払の点について自白の成立があることはすでに主張したとおりである。)

二、同二の事実はすべて否認する。本件賃料は毎月末持参払の約定であったところ、控訴人ほかこれに隣接する六、七名の賃借人が何れも持参しなかったため、被控訴人は上出に対し家賃集金行為のみを委託したのであって、それ以外の約定、その他の事項を同人に委託した事実はなく、また上出において六〇か月間の長期にわたり多額の賃料を延滞してきた控訴人に対し催告を重ねていた事実はあっても、支払を猶予した事実はない。

三、同三の事実は否認する。本件賃貸借契約には賃料持参払の約定があり、かりに右約定が認められないとしても、債権者たる被控訴人住所に持参支払うべき筋合のものである。被控訴人は控訴人が長期にわたり賃料を延滞し、被控訴人方に持参支払しなかったため、止むを得ず管理人の上出をして取立てに赴かせていたに過ぎない。

四、同四の事実はすべて争う。本件賃料が持参払であること、延滞賃料について支払を猶予した事実のないことは前述のとおりであり、五日間の催告期間は相当な期間である。なお一か月分の賃料を誤って多く催告したことによっては未だ過大催告とはなし得ない。

五、同五の事実は争う。

六、同六の事実は争う。控訴人の主張に対する反論は次のとおりである。

1.控訴人は本訴提起前被控訴人の管理人上出宅へ解除前の延滞賃料の内金合計一万五六〇〇円を支払ったに止まり、残金の二万〇四〇〇円は現在もなお未払であること前述のとおりである。

2.六〇か月分の延滞が継続的であるか不継続であるかは、延滞を正当とする何らの理由ともなり得ない。

3.本件家屋を含む八軒長屋は明治以前に築造された老朽家屋で、被控訴人の所有となる以前から家の基礎が傾斜しており、控訴人が居住するままで有効な修繕をなすことは実際上実行不能であり建替えるほかない状態である。このような事情で控訴人から被控訴人に対する修繕の申出は絶無であり、被控訴人も修繕したことはない。

4.被控訴人は八軒長屋の賃借人の何人に対しても賃料の受領を拒否する旨表示したことはない。

七、同七、八の事実は争う。控訴人は賃貸借契約の解除後においても延滞賃料の支払義務を負担しており、被控訴人がその一部を受取ったからといって解除の効力に何ら消長を来すものではない。

八、同九の事実は争う。その主張の理由のないことはすでに主張したとおりである。

九、同一〇の事実は争う。控訴人は被控訴人が八軒長屋の跡地に文化住宅を建てることが恰も被控訴人の一方的な利益のみを取得せんがための企図であるが如く主張するが、それは真実を甚だしく曲げるものである。被控訴人は控訴人に長期間の家賃の延滞があるため賃貸借を解除したもので、任意の明渡を得られない以上明渡を訴求することは当然である。

一〇、同一一の事実は争う。

第六、証拠関係<省略>

理由

一、本件賃貸借契約の成立について

控訴人は、原審において被控訴人主張の日時に被控訴人との間で本件家屋の賃貸借契約を締結したことは認める旨陳述したことにつき、右は賃貸借契約の内容について認めたものではなく、また賃貸借成立の点についても被控訴人において右陳述を援用する以前に撤回しているから自白の成立はない旨主張するので、まずこの点について判断する。

記録によれば、控訴人は原審第一回口頭弁論期日において、被控訴人が「明治三六年三月被控訴人先代亡古川市太郎は控訴人に対し本件家屋を家賃金は毎月末持参払の約旨で賃貸し、爾来賃貸を継続してきたところ、被控訴人先代死亡後の昭和二二年四月被控訴人は改めて控訴人に対し家賃は月額一〇〇円と改定し、毎月末持参払の約旨で賃貸し」た旨陳述したのに対し、「被控訴人主張の日時賃貸借契約を結んだことは認める」旨陳述していることが明らかであるところ、右弁論に徴すると、なるほど控訴人は賃料の額およびその支払方法についてはこれを特定して認否の対象とはしていないけれども、「賃貸借契約を結んだことは認める」との用語は、正に賃貸借の要件事実を認めたものと解され、従って賃貸借契約の成立に関しては、控訴人はこれを自白したものというべく、右自白が成立していなかった旨の控訴人の主張は採用することができない。なお、自白の撤回に関し、相手方の援用以前には自白は自由に撤回することができるとされるのは、いわゆる先行自白、すなわち当事者の一方があらかじめ自己に不利益な事実を認める旨の陳述をなした場合のことであるが、本件における自白はあらかじめ自己に不利益な事実を認めたという関係にはないから、相手方の援用という問題も起らないのであって、これを無条件に撤回しうるとする控訴人の主張も失当である。

次に、控訴人は、右自白が真実に反し、かつ錯誤に基づくものであったからこれを撤回する旨陳述し、被控訴人はこれに対して異議を述べるので、この点につき判断する。

<証拠>を総合すると、本件家屋はもと訴外古川市太郎の所有であり、控訴人は同人から本件家屋を賃借し、これに居住していたものであるが、市太郎が昭和二一年六月二日死亡した直後ころ同人の遺族間の協議により、二男の被控訴人が本件家屋の所有権を承継することになったこと、控訴人は市太郎の死亡後、被控訴人から本件賃料の取立を委任されていた訴外上出常三に賃料を支払っていたほか、本件訴訟において前記自白の撤回がなされるまで、被控訴人が本件家屋の賃貸人であることを争ったことがなく、かえって被控訴人を賃貸人と認めて本件家屋明渡交渉に臨み、また終始被控訴人を還付請求権者として賃料を供託していることが認められる。そして、右認定事実に徴すれば、被控訴人が市太郎から本件家屋の賃貸人たる地位を承継したことが明らかであるのみならず、さらに進んで、被控訴人主張のころ被控訴人と控訴人との間において、本件家屋を賃貸する旨のあらたな合意がなされたものと推認できるのであって、右認定に反する証人山中トヨ(当審)の証言および控訴人本人(当審)の供述の各一部は前掲各証拠および右認定事実に照らしてたやすく措信しがたい。

以上によれば、控訴人の前記自白はかえって真実に沿うものというべく、他に右自白が真実に反し、かつ錯誤に基づくものであることを認めるに足る証拠は存しないから、控訴人の前記自白の撤回は許されないものというべく、結局本件賃貸借契約の成立については当事者間に争いがないことに帰着する。

二、本件賃料の額について

<証拠>によれば、本件賃料は、昭和三二年二月当時一か月六〇〇円、昭和三六年七月分からは一か月八〇〇円と各約定されたことが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。なお、右乙第一号証の一には、本件賃料は昭和三三年三月分までは五五〇円、翌四月分からは六〇〇円との記載があるが、上出証言(原審第一回)によれば、右は上出の誤記によるものと認められ、右認定を左右するものではない。

三、請求原因二の事実のうち、被控訴人主張の日時に、その主張のような書面の送達があったことは当事者間に争いがない。

よって進んで、右催告、解除の効力に関する控訴人の抗弁について順次検討を加える。

四、弁済、立替払の抗弁について

被控訴人は、控訴人が六〇か月分の賃料未払の点を否認するのは、自白の撤回にあたるから異議があるとし、控訴人はこれに対して、右のような自白は成立していなかったし、仮に成立していたとしても右は真実に反し、かつ錯誤に基づくものであるから撤回する旨争うので、この点に関して判断する。

まず自白の成否についてであるが、そもそも自白とは、自己に不利益な事実の陳述を意味するところ、ここに不利益な事実とは、相手方が挙証責任を負う事実をいい、自己が挙証責任を負う事実については時機に遅れた攻撃防禦方法として民事訴訟法一三九条によって制限される場合のあることは格別、これを自由に変更、撤回でき、ただその経緯を弁論の全趣旨において斟酌しうるにとどまるものと解すべきである。これを本件についてみるに、賃料債務弁済の事実は、債務者たる控訴人において立証すべき抗弁事実であるから、控訴人は、この点に関しては民事訴訟法一三九条の制限に反しない限り、自由にその主張を撤回し、変更することができるところ、確かに被控訴人の指摘するように、控訴人は原審第三回口頭弁論期日において本件六〇か月分の賃料遅滞を認める旨立言し、後にこれを争って右遅滞の事実はない旨主張するに至ったことを記録上窺知することができるけれども、賃料遅滞を認めるとの主張は自白にあたらず、また控訴人の右主張の変更、撤回については、未だ民事訴訟法一三九条に定める要件に該当するとはいえないからこれを制限するに由なく、結局控訴人が賃料遅滞の事実を争うこと自体は許されるものといわなければならない。

そこで、控訴人の弁済および立替払の主張について判断するに、証人山中トヨ(原審第一、二回)の証言および控訴人本人(原審、当審)の供述中には、右弁済の主張に沿うかの如き部分があるが、右はいずれも具体性に欠けるのみならず、前顕甲第二号証、乙第一号証の一ないし四、第二号証の一ないし六、証人上出常三(原審第一、二回)の各証言に照らすときはこれを採用することができず、他に弁済の事実を認めるに足る証拠はなく、また立替払の事実も、具体的主張、立証を欠くものであって、いずれも理由がない。

五、支払猶予の抗弁について

被控訴人が訴外上出に本件賃料の集金を委託していたことは当事者間に争いがないところ、控訴人は、右上出が各集金に来る都度、あるいは昭和三六年八月ころ、本件賃料の支払につき余裕があるときに払えばよいといって期限を定めず猶予したとして、不確定期限付の猶予があった旨主張する。しかし、集金の都度の支払猶予については、証人山中トヨ(原審第一、二回)がこれに沿ったかのごとき証言をしているものの、右証言は証人上出常三(原審第一、二回)の証言に照らしたやすく措信できないし、昭和三六年八月ころの支払猶予については、なるほど、<証拠>によれば、上出は昭和三二年二月分から同三六年六月分までの本件賃料が遅滞しているままに、同三六年七月分から同年一二月分までの本件賃料を受領していることが認められるが、右証言によれば、上出としては昭和三六年七月分から本件賃料が一か月八〇〇円に増額された関係で、当月分からの支払を遅滞分に充当したに過ぎないことが認められるのであって、他に支払猶予の事実を窺わせるに足りる的確な証拠はないから、右主張は失当である。

六、取立払の約定について

前記一に判示したとおり、本件は被控訴人と控訴人との間に成立した賃貸借契約を基礎とするものであるから、被控訴人の前主と控訴人の間の賃貸借契約について賃料を取立払とする旨の約定があったか否かについてはこれを判断する必要がなく、被控訴人と控訴人との間で取立払とする旨の明示の約定があったことは、本件全証拠によるもこれを認めることができない。そして、当事者間に取立払とする旨の黙示の合意があったものと認めることができるかについては、賃料債務が特段の意思表示のない限り持参払であることからすれば、かかる合意の存在を推認するためには、現実にとられていた支払方法もさることながら、当事者双方にとって取立払とすることが合理的であり、ことに債権者たる被控訴人において取立の負担を甘受することがもっともであると認められるような事情があり、かつ当事者双方、ことに債務者たる控訴人において取立払を期待することが信義に合致し、正当であると解されるような事情が存することを必要とすると解すべきところ、<証拠>によると、本件賃料は殆んど訴外上出が集金に赴いていたことが認められるが、他方、そのような方法がとられていたのは、本件家屋を含む一棟八戸の長屋およびその余の貸家を有する被控訴人の賃料収受の便宜のためにすぎなかったこと、および控訴人の住居と被控訴人の住居との距離はせいぜい一〇〇メートル程度であり、控訴人は容易に賃料を持参しうることが窺われるのであって、かかる事情に照らすと、未だ取立払の展示の合意が成立したと推認するのは相当でなく、他にこれを認めるに足る証拠は存しない。

従って、右取立払の合意が認められない以上、本件賃料の支払は持参払の方式によるものというべく、取立の有無は付遅滞の要件となるものではないから、この点に関する控訴人の主張は失当である。

七、催告の効力について

1.持参払、支払猶予の点について

まず、本件賃料については取立払の約定であるのに持参払するよう催告をしたのは不適法であるとの主張については、前判示のとおり、本件賃料債務の支払は持参払の方式によるべきものであるから理由がなく、また支払猶予があったから過大催告である旨の主張についても、先に判示したとおり、そのような支払猶予があったことを認めることができないから、理由がない。

なお、過大催告の点について付言するに、本件催告が六〇か月分の延滞賃料のほかに、控訴人において支払ずみであった昭和三六年一一月分の賃料の支払をも含めてなされたことは、被控訴人の自認するところであるけれども、これによって被控訴人が支払を求める賃料債務の内容が特定できなくなり、あるいは控訴人が右支払ずみの一か月分の賃料をも持参しなければ、被控訴人においてその余の本件催告にかかる賃料の支払を受領しない意思が明らかであるということはできないから、右支払ずみの一か月分の賃料の支払をも合わせて催告したことは、本件催告を過大催告として不適法ならしめるものではない。

2.相当期間について

次に、本件催告に定めた五日の期間が相当でない旨の主張について判断するに、後に判示する如く、控訴人が当時経済的にある程度困窮していた事情は認められるけれども、本件債務は金銭債務であること、賃料債務は賃借人にとって最大の義務であり、その対価として賃借物の使用権限を取得するという関係にあること、また本件催告はすでに履行期を徒過した賃料債務の支払を求めるものであること、および右催告額に鑑みるときは、控訴人に前記事情があるとしても、右五日の期間は決して不相当な期間であるということはできないから、この点に関する控訴人の主張も理由がない。

八、背信性の有無について

控訴人は、本件賃料の遅滞につき背信性がないとの事情をるる主張しているけれども、そのうち、控訴人が病弱なため昭和二八年ころから本件賃料の支払遅滞が慣行化していたことは、後に判示するとおりある程度認めることができるが、被控訴人においてこれを了知し、認容してきたものであることを認めるに足る証拠はなく、延滞分について弁済あるいは供託ずみであるとの点は解除後の事情であるから、直ちに控訴人の本件賃料遅滞を背信行為でないとすることはできず、本件家屋の修繕に関する事情等も、控訴人の賃料遅滞を正当化する事情たりうるものではない。更に、控訴人が病弱で収入も乏しかったが、自己の収入の許す限り精一杯の支払をなしてきたとの点については、控訴人にそのような事情が存するからといって、被控訴人において控訴人の本件賃料遅滞を甘受せよとは到底いえない筋合であり、未だ控訴人の賃料遅滞が、被控訴人に対する背信行為とはならない特段の事情があるとはいえず、他に右特段の事情を認めるに足る証拠はない。

九、被控訴人が本件催告期間内に延滞賃料の支払をしなかったことは、弁論の全趣旨から明らかであり、以上によれば、被控訴人と控訴人との間の本件賃貸借契約は、催告期間の経過即ち、昭和三七年七月二二日の経過によって解除されたものというべきである。

一〇、解除の撤回に関する主張について

<証拠>によれば、本件解除後の昭和三七年八月一〇日、被控訴代理人上出常三は控訴人から昭和三六年一二月分の賃料として八〇〇円を受領したこと、また昭和三七年一二月一七日には延滞賃料として一万五〇〇〇円を受領したことが認められるが、これは右認定のとおり、解除前の延滞賃料を受領したものであって、解除後の賃料として受領したものではないし、また、<証拠>によれば、被控訴人は控訴人に対し、解除後である昭和三八年に入ってからも代替家屋の提供を申し出て、本件家屋からの立退を求めていたことが認められるが、これは解除による明渡しを訴訟によって求めることなく、穏便に話合いによって解決しようとする意図から出たものであることが窺われ、いずれも、被控訴人が本件解除の意思表示を撤回する旨の意思を表示したものと認めるに由なく、他にこれを認めるに足る証拠はない。

一一、信義則違反、失効の原則、権利濫用の主張について

<証拠>を総合すると、本件家屋は明治初年ないしそれ以前に建築されたもので、全体的にかなり老朽化した建物であること、控訴人は昭和二八年ころから病気がちで働きに出たり出なかったりという状況であり、その間の家計は主として控訴人の妻トヨの労働によって支えられていたこと、控訴人は昭和二四年ないし二五年ころから既に本件賃料の支払を遅滞しがちとなり、遂に本件催告までに、六〇か月分の賃料を延滞するに至ったこと、被控訴人は本件家屋を含む八軒長屋が老朽化したため、昭和三六年七月ころ控訴人を含む右借家人を集め、本件長屋を取り毀してその跡にいわゆる文化住宅を建築したい旨、ついては、右文化住宅建築の際は現居住者を敷金、保証金なしで優先的に入居してもらうつもりであり、また立退料を一戸あたり一〇万円あて支払い、再入居までの代替家屋も斡旋するので、本件長屋を明渡して欲しい旨申し入れたが、控訴人ら借家人の容れるところとならなかったこと、本件長屋の居住者のうち、賃料の長期延滞者は控訴人のほかにもう一人約一年分程度の延滞をしていた者があり、その者に対しても被控訴人は本件催告と同じころに延滞賃料の催告および停止条件付解除の意思表示をなしたが、その者は右催告期間内に延滞賃料の支払をなしたため、解除されることなく継続して賃借居住していること、被控訴人は本件解除後も控訴人に対し、本件家屋明渡の交渉をしていたこと、控訴人は本件解除後、延滞賃料を弁済あるいは供託し、また解除後も賃貸借が継続しているものとして従前賃料額を供託していることが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

右認定の事実および従前判示して来たところに徴すれば、控訴人が本件六〇か月分の賃料を延滞するに至った経緯につき、汲むべき事情がないとはいえないにしても、本件六〇か月分にも及ぶ賃料延滞は解除原因たるに十分な債務不履行というべきであり、他方、本件家屋の老朽化等の事情に照らせば、被控訴人において本件家屋を建替えようと意図することも無理からぬところがあり、控訴人らに対する明渡交渉の経過を見ても、賃貸人としてそれなりの誠意を尽しているのであって、被控訴人の本件解除権の行使および本訴明渡請求が信義誠実の原則に反するものとはいえないし、更に、被控訴人が解除権行使の効果としての本件家屋の明渡請求権の行使を怠り、また控訴人においてその不行使を期待することが正当であると認められるような事情、あるいは本件明渡請求につき被控訴人に害意の存することを認めるに足る証拠もない本件において、被控訴人の本訴明渡請求を目して権利の濫用であるということもできない。

一二、未払賃料および損害金の請求に対する抗弁について

被控訴人は昭和三二年二月分から同三六年六月分までおよび昭和三七年一月分から同年七月分までの計六〇か月分の延滞賃料金計三万六〇〇〇円のうち、控訴人から弁済を受けた一万五六〇〇円を除く未払賃料残額二万〇四〇〇円、および本件解除後である昭和三七年八月一日以降本件家屋明渡ずみまで一か月六〇〇円の割合による賃料相当損害金の支払を求めるものであるところ、控訴人は、右未払賃料残額については昭和三九年六月一八日に弁済供託し、解除後の賃料相当損害金についても各供託ずみであるから、右各債務は消滅した旨主張する。

しかし、<証拠>によると、解除後の賃料相当損害金については、その供託がなされていることは認められず、ただ、これに相当する賃貸借契約上の賃料としての弁済供託がなされていることが認められるにとどまるところ、解除後の賃料相当損害金債務と賃貸借契約の存続を前提とする賃料債務とは別箇の債務であることが明らかであるから、右供託は損害金債務の弁済供託としては不適法であるといわざるをえない。また右証拠によれば、前記未払賃料残額について、控訴人主張のとおりこれに相当する供託がなされていること、その供託原因は、被控訴人においてあらかじめその受領を拒絶したためであるとされていることが認められるけれども、被控訴人において右未払賃料残額について、その提供がなされる以前にあらかじめ受領を拒絶していたことを認めるに足る証拠はなく、前掲各証拠中には右未払賃料残額について、昭和三八年二月ないし六月ころ控訴人の妻訴外山中トヨが訴外上出に二万円余を持参提供したがその受領を拒まれた旨の部分が存するが、実際に供託されたのは、その約一年後の昭和三九年六月一八日であることを併せ考えると、右受領拒絶が右供託原因となりうるか未だ疑わしく、他に右未払賃料残額の弁済供託の有効要件たる提供および受領拒絶の事実を認めるに足る的確な証拠はないというべきである。

従って、未払賃料、賃料相当損害金について適法な供託がなされ、その支払債務が消滅した旨の控訴人の主張はいずれも理由がない。

なお、控訴人は本件賃料について、地代家賃統制令の適用を前提とする主張をしているけれども、右主張は具体性に欠けるだけでなく、その旨の立証も存しないから、失当である。

ちなみに、被控訴人の未払賃料請求額について付言すると、従前判示したところから明らかなように、本件賃料は昭和三六年七月分から一か月八〇〇円に増額されたものであるところ、被控訴人はそのうち一か月六〇〇円の賃料を前提として本訴請求をなすものである。そして控訴人が昭和三七年八月一〇日に昭和三六年一二月分として弁済した金額は八〇〇円であることが前顕甲第二号証によって認められる。ところが被控訴人は、右弁済額を六〇〇円として未払賃料額を算定の上請求しており、このため、原判決は被控訴人の右請求のうち、二〇〇円の請求を棄却したものと推認される。しかし、この部分については、被控訴人から不服申立がなされていないのであるから、当審の判断の対象となる限りではない。

一三、結論

以上によれば、控訴人は被控訴人に対し、本件賃貸借契約解除に基づく原状回復として、本件家屋を明渡し、かつ未払賃料のうち少くとも二万〇二〇〇円および本件解除後である昭和三七年八月一日から右明渡ずみまで一か月六〇〇円の割合による賃料相当損害金の支払義務を負うことが明らかであり、右限度で被控訴人の本訴請求を認容した原判決は正当であるから、本件控訴は理由がない。

よって、本件控訴はこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法九五条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 青木敏行 裁判官 名越昭彦 小西秀宣)

<以下省略>

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